うさんくささからの脱却は不可能


うさんくさい人間が、うさんくさくなくなることなどできない。


うさんくささというのは、その人の全身からあふれ出ているものであり、端から見た素人が、「あっ、うさんくさい」とわかってしまような、それくらいうさんくささというものは全身からにじみ出てしまうものなのである。
近くにいる人よりも、何も知らない、全く関係のない人が見た、率直なインスピレーションの方が、的確にうさんくささをとらえる。


うさんくさい人間というのは、何をしていてもうさんくさい。
一生懸命何かをやっているように見えても、やはりうさんくさい。
裏で何か怪しいことをしているのではないか?すぐに裏切るのではないか?頭のおかしいことをしているのではないか?
そして、ただただ残念なことは、うさんくさいインスピレーションは、ほぼ的を外さない。
うさんくさいと直感的に感じたものは、やはりうさんくさいのである。


長年培ってきたうさんくささからの脱却は、そう簡単にはできない。
30年程度、うさんくさい思考の中で生きてきたら、うさんくささからの脱却にはそれと同じくらいの時間がかかる。
一日、一ヶ月、一年、そのような短い期間で、うさんくさい人間からまっとうな人間になることなどできない。


それと比べれば、うさん臭い人間よりも、うんこ臭い人間の方がまだましだ。
うんこは洗い流すことができる。
くさい、くっさい、ものっそい臭い、誰も近づけないようなうんこ臭を周りにまき散らしていたとしても、それは水、あるいは石けんなどできれいに洗い流すことにより、においを消すことができる。
うんこ臭い人間の、きれいに洗った後の姿は、元々うんこ臭くない人間ともはや区別が付かない。
うんこくささは一日、あるいは1時間、10分で洗い流せるが、うさんくささは簡単には洗い流せない。
自分でうさんくさくないと思っても、周りはそうは認めてくれない。
うさんくさい人間には、うさんくさいオーラが漂う。


おっさんくさい人間がおっさんくさいように、うさんくさい人間はうさんくさい。
うんこくさい人間は、洗い流せばうんこくさくなくなる。


うさん臭い人間は、うんこ臭い人間にも勝てず、うさんくさい人間が生み出したものは、常にうさんくさい。
うんこは漏らさなければ周りにばれないが、うさんくささは常に漏れている。
うさんくさい人間が意識しようと意識しないに関わらず、周りの何も知らない人からは全てお見通しだ。


うさんくささからの脱却には、今までのうさんくさい中での生活と同じかそれ以上の時間がかかり、うさんくさい人間はうんこくさい人間にさえ負ける。